しん…とした闇夜。全てが黒で染まる。今宵は新月…カーエデール卿が唯一、普段とは異なる姿になれる日。小さき獣となってこの世界を飛び回る、それもまた一興ではあるがやはり、たまには人の姿に興じるのもよい。やはり博士は吾輩の心をよくわかっている。寝床から起き上がり、被験者用ベッドにおいてある白衣を羽織る。と、足元に大きな塊がみえた。「んん…」もぞりと動くそれは、どうやら人のようだった。ここに人間がくることは実に珍しい。いや、皆無だ。自力でこの場に入ることは不可能なのだ。「さては…連れて来たのか」ぽつりと呟きながら、顎をしゃくり、ハア、と溜息を洩らす。元は自分とはいえ、あの子はあまり深く物事を考えていないように思える。とはいえ、以前は小動物の死体を運んでくることもあったが、それに比べればまだ研究のしがいもありそうだ。(せめて手術台で眠ってくれればいいのだが…)明りをともすと、足元で青年が丸まって眠りについている。みたところ、今は健康状態も良さそうだ。だが、ここに連れて来たということは何らかの問題があるのだろう。持っているろうそくの明かりを顔のあたりにやると、ズキリと頭が痛んだ。「この子は…」吾輩が小さき獣の姿で外にいると、詳細には伝わらないが吾輩にとって重要になることだけは中にいる人格にも伝わる。彼の顔は何度も伝達されてきた。―――ヴラド。それだけしか知らない。だが、それで十分だった。獣が連れてきた唯一の生きた人間。よほど大切に想っているのだろう。静かに寝息を立てる彼のマントをゆっくりとめくる。どうやら、片腕が無くなっているようだ。どのように止血したのか初見では解りかねるが最近のモノでもないらしい。他にも切り傷は頬や肌の出ている箇所に数点見受けられるが、それほど問題もなさそうだった。「腕か…」布できつく縛られた箇所をナイフで切る。その瞬間、バッと翻され、開いている片方の手で掴みかかられた。そのまま床に押し付け、乗りかかる。一瞬の出来事だった。「…誰だ、てめぇ…」力強く握られ、ナイフを落としてしまう。カランと響く音を聞きながら、さらに床に背中を押しつけられる。「少し力をゆるめてもらえないか。吾輩はただ、触診をしていただけだ」「ショクシン…?てめぇ、あのハエの仲間か?」鋭い眼光で睨みつけ、いまにも喰いかかってきそうな勢いに吾輩は少しだけ眉間に皺を寄せた。「蠅とはまた…。わざわざ君を連れてきたあの子も悲しむのではないかね?」「別に、大した問題でもねえよ。…ナイフなんざ出して、何のつもりだ」「腕。布を取ろうとしたが、硬すぎてね」少しばかり力が緩み、のしかかる重みが軽くなった。「ああ。…治せんのか?」覗きこむようにこちらを見る目は、先ほどの勢いはなくなっていた。獣は多分、この目に惹かれたのだろう。片方の目はウェーブがかった前髪で伺うことは出来なかった。「さて、さすがにそのままではわからない。…済まないが一旦降りてくれないか?君がこのままのほうが良ければ無理はいわない」「!…わぁったよ。」飛び起きるように吾輩の上から起き上がり、「こちらへ」と促すと意外にも素直に手術台へ座った。右腕に乱暴にまかれた布をナイフで切り、ゆっくりと解く。最近ではないとはいえ、まだ痛みは強くあるようで傷口に布が触れると顔をゆがませるのが見えた。「まだ、痛むのだね…仕方あるまい。どうやらこれは…あの子が一時的に切り口を?」「…おう、印でなんとかしてるっつー話は聞いた。で、…なんとかなんのか?」痛みに耐えながら発する声は、あまりにも辛そうで。早く処置をせねばと思いながらも切り口がまだ断面の見える状態に心臓が脈打った。(これは…いい実験台になりそうだ…博士に見せてあげたい)吾輩の心の奥で浮かぶ言葉を抑え、傷口に触れる。「あぐっ…ッツ…!!!!!」「少し痛むかもしれないが…、一度縫合の為に印を切る」その言葉にびくりとしたヴラドは一瞬制止しようとしたが、思いとどまったようだった。「わかった」「いい子だ。腕はまだこの場にはない。だが、このまま放置するわけにもいかないだろう。吾輩としては…今のうちに全て済ましてしまいたいところだが…、一時的に縫合しておこうと思う。印だけではどうしても腐食まではおさえられないからな」苦痛にゆがみながら、頷く彼の表情に脳内が沸きあがるように興奮していた。(いけないよ、カーエデール卿。彼の回復を祈っているのだろう。今はまだその時ではない)言い聞かせるように頭の中で呟く。冷静を取り戻し、目の前の“患者”に目を落とした。『新月の間に出来ることは限られる。処置は完了したが彼の腕を取り戻すのは、まだ不可能だ。』吾輩は、それだけ紙片に書き残し、傍らで眠るヴラドの顔を見つめた。このまま普通の義手をはめるにはもったいない。なるほど、あの子が目を付けたのもよくわかる。目を細め、満足げに科学班に連絡事項をしたため、カーエデール卿はゆっくりと彼の額を撫でた。「また次の新月で会おう。その日まで…」ボソリと呟き、ヴラドの額に唇を落とした。