追憶1~おまじない~「あらまあ。そんな顔して帰って来るなんて、また学院でからかわれたのね。」俯き加減の少年は太陽の翳りを背中に感じつつ、とぼとぼと覚束ない足取りで家路へと歩を進めていた。ハンドメイドの素朴な装飾の施された木の門扉に手を掛けた時、声を掛けられ足を止める。ささやかながらも可憐な花で彩られた中庭からだった。「あなたは男の子なんだからもっとしっかりなさい、そんなんじゃ将来好きな子ができた時に笑われちゃうわよ。」その声音には、呆れながらも幼い我が子に向けられた慈愛に満ちた温かみがこもっている。少年は眉尻を下げた頼りなげな表情のまま、ゆっくりと顔を上げて母を見つめる。少年の名はオルキャットと言った。淡い水色がかった銀髪に、光を受けると琥珀がかった輝きを放つ不思議な茶色い瞳をしていた。今はその子供特有の大きな瞳はうっすら潤んでいる。彼の母はエルフらしくほっそりとした長身の女性だった。長く豊かな髪を頭の後ろでゆったりとした三つ編みでひとまとめにしていた。彼女はそんな我が子の様子に苦笑しつつ、膝を折り、ぼんやりと立ち尽くした息子と目線を合わせる。額に手を伸ばし、髪を優しく梳いてやる。少年は黙ったまま、されるがままになっていた。彼女には少年の浮かない表情の理由について、察しがついているようだった。「また、クラスメイトの子に”人間”が突然街に現れて子供を攫う、なんて脅かされたんでしょう?」それまで沈黙を守っていた少年が「その」言葉を聞いた途端、はっと強張った表情で見つめ返す。「そんな作り話を信じてどうするの? あなたがあまりに怖がるものだから、みんな面白がってしまうのだわ」諭すように続ける母の言葉を遮り、少年は悲痛な叫びを上げた。「そんなことない!だって現に父さんは王様の命令で”境界”の外へ見張りに行っているじゃないかっ!! 僕知ってるんだから!」「オルキャット・・」「母さん誤魔化さないで!父さんは今じゃ島にいる時間より外にいる時間の方が長いじゃないっ みんなそう言ってる。そう言ってるんだよ!」「オルキャットやめてちょうだい・・」言いようもなく募る不安を激情と共に吐き出した少年は、最後の母の苦しげな声で俄かに我に返る。彼は少年たちの中でも取り立てて何かに優れた素質を未だ見せてはいなかったが、9歳という幼い年齢の割には他者を思いやる心を生来持ち合わせている方だった。「あ・・ごめんなさい、母さん・・ ・・僕ひどいこと言っちゃった・・」痛みに耐えるような表情と共に、瞼を閉じてしまった母の肩はかすかに震えていた。少年は思い出す。夕暮れ時、まだ床に届かない脚をぶらぶらさせながらテーブルについて、母が夕餉の準備をしている様子を眺めていた時のことを。母の背中は、父が居ない時いつも淋しそうだったのだ。2人分の食器に特製のシチューをよそい、テーブルの方へ振り返ったときにはいつもの柔らかい笑顔がそこには常にあったのだけれども。少年は頼りにしている母の肩が、思っていたよりもずっと華奢で自分の前では気丈に振舞っているのだとおぼろげ乍ら気づいてしまった。胸が痛かった。母の肩に触れてぎゅっと指に力を籠める。「ごめん、母さん 父さんはきっともうすぐ帰って来るところなんだよね」母は息子を抱き寄せると、額をこつんと合わせた。「そうね。お父さんは帰って来るわよ。私も早く会いたいわ。 オルキャットもそうでしょう?」「うん 父さんに会いたい。」母は目を細めて柔らかく微笑んだ。「じゃあ、早く帰ってくるおまじないしようか」「うん!」少年の幼い顔にようやく子供らしい笑みが浮かんだ。「お母さんがおまじないをかけてあげる。 いいって言うまで動かずにじっとしてるのよ?オルキャット。」「はーい!」「ふふっ」少年は母のかけてくれる”魔法”の力を受け止めようとするかのようにそっと瞼を閉じた。母は素直な息子の様子に破顔しつつ、息子の前髪の一房を白いほっそりした指で器用に編み込んでいく。「おしまいよ。もう目を開けてもいいわ」少年はそれを聞くと、一度パチクリと瞬きをしてから大きな目を開いた。自身の前髪に施された細い三つ編みに手を触れる。中庭にある小さな泉まで小走りで駆け寄り、水面を覗き込む。様子を眺めていた母は、振り返った少年のはにかんだ笑顔につられて笑みを深める。「母さん!これすごくかっこいい!!」「お父さんが帰って来るまで毎日編み込んであげる」「わーい!やったぁ!!ありがとう! 父さんにも早く見せてあげたいなぁ!かっこいいって言ってくれるよね!」「ふふ。 さあ、もう日も暮れてしまうから中に入りましょう? オルキャットの好きなウサギ肉のシチューができているわ。 今日は学院でどんなことを習ったのかお母さんに聞かせてちょうだい」「うん!あのね・・」親子は夕日を背に、手を繋いで木の扉を開いて小さな我が家へと入って行った。これが在りし日の母との思い出だと、後年のオルキャットは妻に語った。三つ編みを編むとき、自分は目を閉じているふりをして、母の白い指が優しく髪に触れるのを見ていたのだとも。妻は「いくつになってもあなたは変わらないわね」と言いながら、口振りとは裏腹に優しいしぐさで夫の三つ編みに触れた。その表情は窓からそそぐ朝の光のまばゆさで判然とはしなかったが、柔らかいものだとオルキャットには分かった。~あとがき~三つ編みの由来→母が怖がりだった幼いオルキャットに「お父さんが早く自分たちのところに戻って来られるおまじない」と言って編んでくれたのが始まり。母はオルキャ10歳の時に流行り病で亡くなる(入手が難しい薬草さえ手に入れば特効薬が作れるはずだったが、父は王命を帯びて遠隔地へ任務に赴いていたため、伝書鳩による伝言を受け、戻ろうとするも間に合わず)以後は、母を偲んで毎朝自ら編み込んでいる。